お知らせ
艶と硬度を備えた新しいオリジナル コーティング「ドゥレッザ ガラスコーティング」
ガラスコーティング瀬谷区 |欧州・中東で採用の新型「ドゥレッザ」
「ドゥレッザ ガラスコーティング」は通販でも販売を行っております。
※下記の画像をクリックしますと購入ページにリンクされております。
従来のガラスコーティング剤は定着していない?塗装の保護になっていない?はこちらをクリック
WESTWAVEInc.楽天市場店はカーシャンプー・ガラスコーティング・コンパウンド・洗車用品などのカー用品を取り扱う公式オンラインショップです。弊社オリジナルブランドのDUREZZAは各種こちらでご購入いただけます。
柔軟性のある最高硬度7h 硬く・しなやかな ガラスコーティング
耐スクラッチ性試験でドゥレッザ ガラスコーティングは「ハイモースコート」の4倍
表面性測定器にマイクロファイバークロスを取り付け、4000回擦った。
ドゥレッザ ガラスコーティングは物理的作用にも強く、耐スクラッチ性にも優れています。
※塗装面と強固に密着したガラス被膜(硬度8H)を形成。被膜硬度は「JIS K 5600-5-4」に準じ、弊社提携研究所にて測定。
「ドゥレッザ ガラスコーティング」は硬い表面の定着性を求めた2層コーティング
上記画像は塗装のようにクリアのある鉄板ではなく、ザラザラした鉄板にガラスコーティング剤を馴染ませるのではなく、実験の為定着しづらいようにスポイトで数滴垂らすと、弊社のガラスコーティングは定着の良い低分子にも関わらずガラスコーティング剤が鉄板から浮いた状態になっております。
ガラスコーティング剤が鉄板から浮いた状態になるのは硬さがあるイコール粘質が強い為に浸透しないことが考えられます。
そこで弊社は浸透性のある硬度7Hドゥレッザをアンカーとして1層目に塗り込み、2層目に硬さを重視した8Hドゥレッザを塗装の保護にすることで定着性と硬さの両方を備えることができました。
※従来の最も高級なガラスコーティングはフッ素の定着性を良くする為にポリシラザンをアンカーにしたり、シランを定着させる為にポリシラザンをアンカーにする手法でしたが、これらの行為は車の塗装がムラになりやすい性質を持っています。
ドゥレッザはディーラー カーコーティング の硬さが2倍以上!膜厚は10倍以上!
通常のカーコーティングのみの施工ですと有機物汚れや酸性雨による腐食予防には強いですが、ウォータースポットには弱いという弱点がありましたがドゥレッザ は柔軟性のある硬く・しなやかなコーティングの他にシリコーンレジンコーティングという無機物汚れやシリケート固着予防がされているので雪国でも強いボディーコーティング剤です。
「ドゥレッザ ガラスコーティング 」の撥水力!撥水角110℃以上は世界ナンバーワン!
ガラスコーティング剤を選ぶ基準!ここが大事!
日本車の塗装の硬さはH~2H位であり、外国車は塗装の硬さが4H位あります。
ガラスコーティングの目的は塗装の保護ですので、外国車を基準にすると5H以上なければ塗装の保護にはならないでしょう。
しかし、ディーラーの9割以上のガラスコーティングがポリシラザンという成分で鉛筆硬度が3Hのものであり、日本車であれば1H硬いので硬いので塗装の保護にはなりますが、外国車を基準にすると塗装の保護にはなりません。
但し、硬ければ硬いほど良いと言うわけではありません。
例として、携帯電話のアイフォンの表面ガラスは9Hあり、1メートル位の高さから落とすとバキバキに割れ、よく割れた状態のアイフォンをそのまま使用している学生さんなんかをよく見かけます。
そして、メガネですが、これは「柔軟性のある7H」ですので、アイフォンのように1メートル位の高さから落下させてもキズは入るかもしれませんがバキバキに割れることはありまん。
なので、ガラスコーティングを選ぶ基準は「5H~7H」までが最適でしょう。
※ドゥレッザ ガラスコーティングは鉛筆硬度7Hになります。
硬さの違いもありますが、カーコーティングの厚さが全く違います。 下記画像の左側は通常のディーラーガラスコーティングの成分であり、右側の画像はドゥレッザ ガラスコーティングになります。 通常のカーコーティングは硬化させても「でんぷん」の粉のようにしかなりませんが、ドゥレッザ ガラスコーティングは本物のガラスなので下記右側のようにガラスになります。 カーコーティングは塗装の保護なので、下記のようなガラスにならないと塗装の保護にはなりません。
DUREZZA(ドゥレッザ)と他社のガラスコーティング剤の違い
上記の画像を見て頂くと明らかにDUREZZA(ドゥレッザ)とディーラー系のガラスコーティング剤は成分の違いはわかって頂けると思いますが、DUREZZA(ドゥレッザ)はガラスのかたまりになり、ディーラー系のガラスコーティング剤は白い粉にしかならないのでガラスコーティング剤の厚さが違います。
DUREZZA(ドゥレッザ)同様にガラスコーティングの厚さに関しては、通販売れ筋販売上位商品と変わりはありませんが、24時間後経過後、DUREZZA(ドゥレッザ)は透明のガラスになってますが、通販売れ筋販売上位商品は粘質のあるガラスが半乾きの状態です。
ガラスコーティングの完全無機質と硬度9H以上の嘘・誇大広告
楽天やAmazonのガラスコーティングの商品を弊社、提携の研究員が遊びに来た時など拝見することがありますが、嘘や誇大広告が酷いよねって話をよくします。
研究所の検査方法で弊社のガラスコーティング剤と他社の4点の商品を比較検討しようかと思います。
よくある完全無機質なんてない!
ガラスコーティング通販、どこかのガラスコーティング専門店で「完全無機質」などの言葉聞いたことはありませんか?
「無機質」まではOKですが、「完全無機質」ってガラス成分100%ですよね。
仮にガラス成分が100%ですとタダのガラスなので塗装やその他の物質に定着しません。
定着させるにはシリコンやチタンの物質が必要です。
これだけで100%じゃありません。
完全無機質は定着しないガラスコーティングですよと言ってるのと同じです。
下記の画像はステンレスの上に各々のガラスコーティング剤を塗り込みました。
上記画像ガラスコーティング剤の違いはどドゥレッザはほぼ透明なのに対し、他の商品は虹色や白化しております。
虹色や白化するのはガラスコーティングの成分の中に含有量が多いので、上記のような状態になります。
ドゥレッザのガラス成分は92~93%位になり、1番右側のガラス成分3割は弊社で用意したガラスコーティング剤で含有量が多いので若干、虹色ですが、楽天上位商品はさらに虹色になっています。
楽天上位商品の6Hというのがあり、特に虹色にもなっていなく水玉模様になっているのはガラス成分と触媒が上手くかみ合っていないのと、この成分がそもそもガラス系とは違う、塗料系だからではないかと思います。
楽天上位商品の9Hの虹色の原因はガラスコーティング剤の定着からあまり使用されていないスズが原因かと思います。
凡そでありますが、研究員になるとガラスコーティング剤の匂いを嗅いだだけでわかる場合もあります。
結果、成分が透明のドゥレッザですらガラス成分は92~93%位なので、画像の色だけで判断してもそれ以下のガラス成分ですので、「完全無機質」はあり得ないということです。
ガラスコーティング剤の硬さ・硬度
よくあるJISの硬度試験というのは鉛筆を下記のような車に設置して傷をつける試験になります。
たまにモース硬度とかありますが、試験内容にモースはありません。
あくまで鉛筆硬度です。
JISの試験は6Hまでしかないので、弊社で5H~9Hの鉛筆を用意しました。
下記の画像は各々の鉛筆で傷をいれた後の画像になります。
上記、画像で横に傷が入っているのがわかりますか?
下記、画像は傷の確認をわかりやすくする為に横向きにしました。
他社の製品は鉛筆硬度5Hで全てのガラスコーティング剤に傷が入ったので試験結果は4H以下になります。
通販サイトでは9H,6Hと記載してるので、ここまで弱いと思わなかったので3H以下の鉛筆も用意すれば良かったのですが。
ドゥレッザは9Hで傷が入っているので試験結果は8Hになります。
弊社では7Hだと思っていますが。
試験結果はいかがだったでしょうか。
たまに鉛筆は6Hまでしかないから、他社に7Hってなんなんだ!って言われますが、鉛筆は10Hまであります。
逆に硬度13Hや15Hなどの誇大広告のエスカレートがありますが、鉛筆は10Hまでしかないので、どういうふうに試験したのか疑問です。
弊社や研究員の考えとしてはガラス(鉛筆硬度8H)より硬いガラスコーティング剤は存在しないので、ガラスコーティング剤は鉛筆硬度7Hが限界であり、飛び石に勝てるガラスコーティングはありません。
また、今の技術では7Hが限界ですが、それでも傷が入らないことは絶対にありません。
これを糧にガラスコーティング剤を判断して頂ければと思います。
新しいガラスコーティング剤: 低分子シラン ドゥレッザ ガラスコーティングとは
従来のガラスコーティングとは違う硬く、しなやかな最強無機質ガラスコーティング
ガラスだから硬いのは当たり前、衝撃や湾曲などのストレスによるひび割れが発生しにくい柔軟性を持たせました。
柔軟性が(硬いだけより)耐傷性を高めます。また、酸化劣化しないことと合わせ、将来の剥がれ、ひび割れ等の弊害に対する心配ををゼロにします。
ドゥレッザ ガラスコーティングは単一成分98%の高密度ガラスコーティングです。限りなく無機質に近いコーティング剤ですが2%のアルコキシドを混合する事により3~4ミクロンの甲膜厚を実現しました。また硬度7hの高度を持ちながら高膜厚のコーティング剤でもあり非常にバランスのとれた撥水角100℃を超えた撥水性ガラスコーティング剤です。
Hard-supple 硬く・しなやか
衝撃や湾曲などのストレスによるひび割れが発生しにくいガラスコーティングでは最高硬度の7h!
セラミックガラスコーティングのように9hなど硬さが増すほどクラックが発生しやすくなります。
このため弊社のガラスコーティング剤では、多少の柔軟性を持たせて、あえて鉛筆硬度9Hとはせずに7H前後に調整して、クラックの発生を防いでいます。
※ペルヒドロポリシラザンは高硬度9hであるが、クラック発生を防ぐため膜厚は薄く、意外にも微細な擦過キズにも弱く、膜厚をあげるために何層にもコーティングを施工すると剥離する。
ディーラーガラスコーティングは殆どがオルガノポリシロキサンを使用しており高分子の為、定着性が粘着テープのような定着性の為、柔軟性はあるが硬度が3h位しかなく耐久性も実際は1年半位。
弊社ガラスコーティングは低分子シランガラスコーティングの為、高硬度7h~8hであるが柔軟性があるためクラックしづらく、また、低分子のため塗装面の微細な凹凸に浸透しやすく、強靭な密着力が違う。
他社で完全無機質でガラスが完全に固まるぐらいの硬化で3μ以上の膜厚になれば劣化します。
上記のような硬化が塗装のうえで定着するとは考えづらい。
薄いプロテクションフィルムにドゥレッザ ガラスコーティングを実験の為、厚塗りしました。
ドゥレッザ ガラスコーティングを塗ったプロテクションフィルムを指で曲げても、ひび割れしません。
通常のガラスコーティングですと、数μでもここまで曲げるとひび割れしますが、ドゥレッザ ガラスコーティングは低分子の為、膜厚が厚く、そして硬くても衝撃や湾曲などのストレスにも強い。
硬度とクラック
硬度が硬いほど良いと言われるガラスコーティング商品やサービスがありますが、ガラスコーティングは化学合成品であるため、被膜の硬さが増すほどに脆く壊れやすくなり、「クラック」と呼ばれる微細なひび割れ損傷が発生しやすくなります。
クラックは硬化の過程や使用中の物理的化学的刺激などより発生し、見た目の「クスミ・濁り」になったり、「被膜が剥がれ落ちやすくなる」ことの弊害の原因になります。
今の技術で作ることができるガラスコーティング(非晶質ガラス)は、鉛筆硬度9H程度が最高硬度となりますが、コップや窓ガラスなどの厚みのあるものと比べて、ミクロン(μm)単位の被膜では硬さゆえの脆さの影響が大きくなります。
クラック発生を回避するためには、少し粘り気を持たせる必要があり、6H~8H程度の硬度が最適であると考えます。
膜厚と硬度
膜厚はある程度厚い方が良いと思います。しかし硬度が同じ場合被膜が厚くなるほどクラックが発生しやすくなりますので、上記のような若干の粘り気のある6H~8H程度のガラスコーティングでは2~4μm前後の膜厚が、微細な傷からの保護という意味でもバランスが良いのではないかと考えます。
硬度が同じ場合は、膜厚が厚くなるほどクラックが発生しやすくなるため、硬度9H程度のガラスコーティングでは0.5μm~1μm程度の薄い膜にしないと、クラックの発生が問題になります。
このように余りにも薄い被膜では、摩耗や微細傷も塗装まで達してしまう可能性が高まります。
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瀬谷区(せやく)は、横浜市を構成する18区の中の一つ。
地勢
最高地 北町 海抜93.6m
最低地 阿久和南三丁目 海抜36.7m
位置
神奈川県のほぼ中央部、横浜市の西端に位置し、区域は大和市との境界である境川に沿って南北に細長く5つの川が流れている。北部は東京都町田市、緑区、南部は泉区、東部は旭区に接している。 東京都心から約40km、横浜市中心部から約20km程。
地形
相模野台地・相模平野に位置し、相鉄線を挟んで北部は平地が広がり、南部は川沿いに段丘状になっている。
気象
気象庁横浜地方気象台の情報や注意報・警報は横浜・川崎である。横浜市内ながら内陸部に位置しているため、冬には氷点下も出す地域で、気候は夏暑く、冬寒い。
横浜中心部が雨でも、瀬谷区は雪になっていることがある。
横浜中心部が気温5℃の時、既に瀬谷区では2℃位になっていることも多く、明け方は氷点下になっていることもよくある。
河川
大和市との境に境川が流れている。
台風や大雨の場合、床下浸水等の被害がしばしば起きる。特に1991年(平成3年)の台風の時は鹿島橋を架け替えるほどであった。現在の環状4号線の開通する前には、跨線橋のある辺りで雨水幹線の工事をしていた。
他に大門川、相沢川、和泉川、阿久和川がある。和泉川と阿久和川は源流が区内にある。
自然環境
2004年度の区内の緑被率は35.9%で、横浜市平均の31.0%を上回っており、横浜市内ながら自然環境が豊かな街であり、東部の二ツ橋町や東野には瀬谷市民の森、南部の宮沢や阿久和には宮沢ふれあい樹林、東山ふれあい樹林など樹林が多く点在する。
歴史
地名の由来
「せや」の地名は、一説に狭谷(せや)で、「狭い川瀬の小谷がある土地」に由来すると言われている。
1969年10月1日の旧戸塚区域との分区の際は、公募による候補区名では「西浜」(にしはま)(西部の横浜から)が「瀬谷」と並んで多かったが、「親しみやすい」ということもあり、現在の瀬谷区という地名になった経緯がある。[1]
先土器[編集]
旧石器時代の遺跡が本郷・林の両遺跡で確認された。遺跡は以下の2か所である。
本郷遺跡-本郷二丁目尖頭器・石核等十数点出土。石碑がある。
林遺跡は-下瀬谷、下瀬谷中学校が建設されるにあたって発掘作業が行われた。
縄文時代
区内では50箇所を超える縄文時代の遺跡が確認されている。主な遺跡は以下の通り。
阿久和の大久保原縄文遺跡は昭和52年から53年にかけて調査が行われた。縄文後期の住居跡7軒や、釣手土器、石斧、石皿等が出土している。
阿久和南4丁目の蟹沢遺跡では、阿久和団地造成にあたって発掘作業が行われ、縄文中期の竪穴住居7軒や貯蔵穴が検出されている。
阿久和西2丁目の宮越遺跡(阿久和西のセブン-イレブン付近)では、住居跡257軒、土壙411基等が検出され、縄文中期の大規模な環状集落であることが判明した。
阿久和の小金が分譲される時(昭和40年代)にも発掘調査が行われ、茅山式土器が出土している。小金第一公園付近や長屋門東側にある鉄塔付近からも縄文時代早期・中期の遺跡が検出されている。
他にも五貫目町のマークスプリングスの敷地や二ツ橋の県立三ツ境養護学校敷地周辺からも住居跡等が検出されている。
弥生時代
区内の9箇所で遺跡が確認されている。
古墳時代
古墳時代の遺跡は区内で25箇所確認されている。
八幡上古墳跡…若宮八幡宮にあったとされる。円墳。直刀と勾玉が出土したと言う。
別太羅塚古墳(べったらつかこふん)…上瀬谷通信隊の基地内にあったというが、基地が造られる際、米軍のブルドーザーで破壊されたと言う。
長天寺古墳跡…長天寺の北側には古墳跡があり、装飾品等の出土品(人骨3体、直刀、金環、琥珀玉)は東京国立博物館に収められている。
その他…南台3丁目に石塚山古墳、また瀬谷中学校北側にもあったと言うが、詳細は不明。東野にも相沢川沿いに遺跡がある。
奈良・平安時代
1978年(昭和53年)、瀬谷西高校の建設工事で奈良時代と思われる横穴墓が検出され、人骨が出土した。同時に盗掘のあとも見つかっている。正門から校舎に向かう道路の下部付近である。
鎌倉時代[編集]
南北を縦断する鎌倉街道(かまくら道)の上道は、当時の主要な街道の一つであり、源頼朝、日蓮、新田義貞などが通った跡が残されている。
源頼朝は、石橋山の戦いに敗れ安房に逃れた後、態勢を建て直し鎌倉攻めをする前夜に、相沢の諏訪社で宿泊・夜陣を張ったという言い伝えがある。
日蓮は晩年、鎌倉を出発し中原街道を通り池上に向かう途中、妙光寺に立ち寄った。
新田義貞は、世野ヶ原(現在の瀬谷)で、20万を越える勢力の陣揃えをして鎌倉攻めの準備をした。
阿久和は鶴岡八幡宮の荘園だったという記録が残されている。八幡宮の財政が一時期悪化されたときに地頭色部氏売却されたが、徳政令によって返還された。
室町・戦国時代
応永23年(1416年)に起きた上杉禅秀の乱では、上杉・足利持仲と江戸・豊島の両軍が世谷原の戦いで戦った。主な戦場は鎌倉台(楽老峰)・中丸山で、破れた上杉軍は、鎌倉道を敗走していった。
宝徳の頃(1450年頃)、上杉定正の家臣、山田経光(? – 文明2年(1470))が瀬谷・大和を治めていた(『新編相模国風土記稿』巻之六十四)。居住は瀬谷の中屋敷で大和の深見城を本拠にしていた。現在でも区内に中屋敷、馬場屋敷、牢場坂等の居館址に由来する地名が残されている。境川に架かる上瀬谷橋は、架け替えられる前は山田橋という名前であった。牢場坂では牢屋が置かれた場所とも馬事訓練がおこなわれていたともいわれている。
享禄2年(1529年)上杉朝興と後北条氏との間で合戦が起き、後北条氏側が勝利した。この時北条氏康は初陣を上げている。この時も中丸山・基ヶ峰(細谷戸東方の丘陵)が主戦場になっている。
後北条氏の時代、瀬谷は御馬廻衆(旗本)の久米玄蕃之助、阿久和は小机衆増田駿河守満栄の知行であった。また「皇国地誌」によれば、瀬谷は、永禄年間は北条氏政の家臣で久米の小姓であった松波内蔵の采地であったことが記録されている。本郷に居を構えていた伝わっている。
久米玄蕃の所領は、現在の埼玉県坂戸市森戸であったことが「小田原衆所領役帳」に残されており、他に相模国西郡別堀、そして瀬谷を合わせて101貫67文を領していた。
増田駿河守満栄は現在の川崎市高津区の一部を含め141貫を領していた。阿久和の中村に屋敷があったと伝えられている。
相模風土記によると、後北条氏に対し瀬谷の村民は軍備調達への租税に税銭不納運動を起こしたことが記載されている。
甲斐武田氏が滅亡した時武田家ゆかりの者の一部が瀬谷に土着したと言われ、区内の善昌寺は支族岩崎丹後守が一族を弔うために開基したと伝えられている。ちなみに三菱の創始者岩崎弥太郎も岩崎家の流れを汲んでいるとされている。岩崎家はその後長田家支配の上瀬谷地域の名主となる。
江戸時代
天正6年(1578年)中原街道沿いの瀬谷(現在の北新、宗川寺あたり)に問屋場が設けられる。天正18年(1590年)、石川弥治右ヱ門重久に経営が委嘱された。二ツ橋には、荷物等の受け渡しを行う継立場が設けられた。
徳川家康は東海道よりも中原街道を利用することが多く、「駿府記」によると天正18年(1590年)の江戸入府の際にも利用している。また遺言により、駿府から日光に分骨されるときにも利用された。
二ツ橋で「しみじみと 清き流れの清水川 かけ渡したる 二ツ橋かな」と詠み、現在では二ツ橋に石碑が設置されている。
三ツ境駅北部にある楽老峰という名前は、徳川家康が訪れた際に命名したと言われている(当時は美屋古山と呼ばれていた)。家康が駿河に行く途中ここで休憩をし、住民が差し出した茶湯を飲んだという。記念碑が楽老峰南公園にある。
徳川家康が瀬谷を通過した際、瀬谷の絶景を「瀬谷八景」と命名した。二ツ橋の三叉路(現在の二ツ上橋交差点付近)、中丸山北条氏康古戦場、上瀬谷の城山(大和市の深見城と考えられる)、五〆目(現在の五貫目町)、竹谷戸(現在の竹村町)の鎌倉道、山田橋(現在の上瀬谷橋)、別太郎塚の狩場(上瀬谷通信隊の中にあり破壊されている)、伊賀守の中屋敷。
宮沢村でも、家康が鷹狩りをしたという言い伝えがある。
瀬谷村に知行地を持つ旗本は、後藤氏、長田氏、本多氏。阿久和村は、安藤氏。宮沢村は、石川氏が治めていた。二ツ橋は天領であった。
二ツ橋は、天正年間に瀬谷郷にあった芝地を露木甚左衛門らによって開墾され、藤沢宿の支配下に置かれた。二ツ橋の千駄野(現区役所周辺)からは藤沢宿にある藤沢御殿に萱を納めていた。しかし年貢は年々増加し村人たちが正しい検知を実施することを要求し、享保10年(1725年)検知が行われ、幕府の直轄領韮山代官所支配の天領に移行され、日野氏、大貫氏を経て江川家が代官を務めた(二ツ橋に宿場があったのも一因)。正徳4年(1714年)、日野小左ヱ門正晴は屋敷を中原街道と相鉄線が交差するところに、代官陣所を現在の二ッ上橋の交差点の辺りに置いた。文政7年(1824年)にも、不作でも減免しない領主に対して、農民が代官に窮状を訴えている記録がある。江川英龍が二ツ橋に巡視に来た際には、露木源兵衛宅に宿泊したという記録がある。
宮沢は、石川重政が徳川家康関東入国により天正20年(1592年)に賜った土地で、重政は、戸塚区上矢部に屋敷を置き、寒川町大蔵、海老名市望地、大和市下草柳に計687石を賜っている。寛永年間(1625年 – 1635年)に上矢部の3軒の住民が、宮沢の荒地を開墾して集落を作ったのが始まりとされている。
石川家は有力旗本として、重政の子重次は普請奉行、以下代々、小姓組や御書院番等を務めた。
中瀬谷は、後藤忠直が慶長5年(1600年)に知行地として与えられたもので300石あった。忠直は、島津氏の庶流長徳軒の孫で、長徳軒(島津運久の子で別名忠貞)は享禄年間薩摩を出奔後、北条氏綱に招かれ相模に居住した。忠直は、北条滅亡後、徳川家康に見いだされ、旗本となった。代々御書院番などを務める。二代後の久利の時、島津に改姓。1844年、江戸城で大火があり、瀬谷で植樹していた椰の木を伐採して中原街道で送り、江戸城復興に一役買ったと伝えられている。現在では南台に石碑ができ、近くに「梛の木石碑前」というバス停もある。久利三代後の久武のとき後藤姓に戻る。宗川寺に墓地が残っている。
幕末の資料「視聴草」によると、後藤忠正(島津)の長女である大橋局は、徳川秀忠夫人お江与の方に仕えていたが、秀忠の寵愛を一時期受けてしまい身ごもってしまったので、家康は後藤光次(庄三郎)の妾として下げ渡された。
上瀬谷は平良兼の流れをくむ長田氏領で、妙光寺に墓地が残されている。長田氏は、家康・秀忠の鷹匠を務めていた。瀬谷駅近くに鷹見塚が残されている。長田氏の先祖の一人長田左衛門尉親致は源義朝を討ち取っている。
相沢は代官采配の村であったが、本多一族の康重の家系を組む旗本の本多紀品が采地として明和4年(1767年)に賜った。火付盗賊改に任命された時であった。紀品は鬼平犯科帳にも登場する。石高は2,000石で、江戸屋敷は番町(現千代田区)にあった。御目付衆を務めた。
相沢の名主は、永野家が務め代々藤兵衛を名乗っていた。地元には「頭巾かぶりの藤兵衛さん」という民話が残されている。
阿久和は、徳川家康の関東入国にあたり、安藤治(次)右衛門に分配された。初代定次は伏見城の戦いで戦死、二代目治(次)右衛門正次は阿久和の熊野神社から大坂の役に出陣し、夏の陣で戦死した。三代目安藤正珍(まさよし)は、鍵屋の辻の決闘の仇討で荒木又右衛門に殺害された河合又五郎を匿ったとされている。菩提寺は泉区にある阿久和山観音寺、お墓山に安藤家の墓地がある。詳しくは、阿久和安藤氏を参照。
名主は相原家が務め、北井家は御用商人であった。
瀬谷村、阿久和村、宮沢村は中原街道や東海道戸塚宿の助郷が割り当てられていた。
瀬谷村はお鷹場があったため、将軍お鷹狩りのお達しがあれば、農繁期でも鷹狩り人夫に努めなければならなかった。
区内には、川口、守屋、平本、芝本、露木、北井、相沢、相原、籾山等の姓が多い。江戸時代は、名主・組頭・百姓代等を務めていたためである。守屋家は、相州東郡38か村の惣名主を務めた。
幕末になるとこの地域でも剣術が流行り、阿久和では北井家や相原家、下瀬谷では守屋平助が天然理心流の道場を開いていた。
慶応3年(1867年)、京都守護職の任にあった会津藩主松平容保が京都からの帰還の際に、瀬谷村は人夫役として36人が割り当てられた。
明治時代
明治期は養蚕が盛んで、区内には桑畑が多くあった。上瀬谷の野鳥館、中屋敷の石井製糸場。本郷の川口製糸場(後の本郷館)、北村の小沢製糸場。新道の守屋製糸場、下瀬谷の仙田製糸場などがあった。多くは昭和初期までに廃業している。区内最大の製糸工場は、1960年(昭和35年)頃まで営業していた本郷館であった。阿久和には北井製糸(相州改良社)、大岡家の大剛館が長屋門公園前にあった。現在では製糸場跡地の看板が立っていて、当時は江戸阿久和とも呼ばれていた。阿久和の長屋門の前でも製糸工場が営まれ、長屋門で養蚕が行われていた。必要になる水は、現在長屋門公園になっている地下に横穴が掘られそこから水を引いていた。現在では鉄の柵で囲われている。
1868年(明治元年)瀬谷村・宮沢村・阿久和村は神奈川府に、二ツ橋村は韮山代官所の支配下にあったため韮山県に編入された。その後同年12月に神奈川県に編入した。
1873年(明治6年)「地租御改正反対運動」が起こり、1887年(明治20年)に東京上等裁判所で村民が勝訴する。運動を支えた川口儀右ヱ門と平本平右ヱ門を讚えた義民の碑が徳善寺に残っている。
この頃、瀬谷学舎、二つ橋学舎、若宮学舎、新道学舎、阿久和学舎(現在の小学校にあたる)ができたといわれている。
1889年(明治22年)4月1日 市町村制施行により瀬谷村、宮沢村、二ツ橋村から鎌倉郡瀬谷村が誕生する。初代村長に守屋平助、助役は露木要之助。が選出される。長天寺に役場が置かれる。
1907年(明治40年)5月、瀬谷銀行が中屋敷に設立された。資本金は50万円で小島政五郎が頭取となった。この頃区内で盛んになっていた養蚕業に、製糸業者の融資が瀬谷銀行を通して行われた。支店は厚木・町田・橋本・中山・浅間町にあった。昭和10年鎌倉銀行に債権債務の譲渡を行い、銀行としての業務を終了した。
大正時代
1912年(大正元年) 国鉄程ヶ谷駅から旭区を通り、今井・又口・三ツ境を経由し二ツ橋を終点とする駅馬車が開通した。片道60銭。しかし資金が成り立たないため、廃止になったと言う。
1916年 瀬谷村役場が長天寺客殿より二ツ橋の新庁舎に移転した。
1921年 楽老峰で武相地方陸軍特別大演習が行われた。
1923年 関東大震災により瀬谷村で死者1名、行方不明1名、全壊戸数53戸が被害を受ける。
1926年 神中鉄道が二俣川 – 厚木間で営業開始。三ツ境駅、二ツ橋駅、瀬谷駅に停車場を設置。初代社長は小島政五郎が務めた。
昭和時代
1939年4月1日 第6次横浜市拡張計画により瀬谷村と中川村が横浜市に編入、戸塚区の一部となる。
戦時中は区内のいくつかの土地が軍に強制収容され、軍用地になった。上瀬谷(横須賀海軍資材集結所・第二海軍航空廠補給工場・横須賀海軍軍需部火薬庫)、本郷(海軍施設部家屋)、南台(兵器工場=大日本兵器(現コマツNTC)第五製作所、航空鉄砲弾を主として製造)等である。東京府立第七中学校などから学徒が動員されたという記録がある。瀬谷は疎開先にもなり、横浜中心部から学童が疎開をし、1944年(昭和19年)、1945年(昭和20年)には一時的に人口が増えた。戦後、上瀬谷はそのまま米軍に接収され(上瀬谷通信施設)、南台は米軍の通信基地にされようとしていたが住民の反対運動で回避、土地は相鉄、三菱を介し横浜市に売却され市営のアパートになった。また本郷には川口航空機、瀬谷6丁目付近には皆川酸素工場など、区内各地に軍需工場があった。
1945年1月 瀬谷駅構内に小型機の爆弾が投下される。貨車一両が延焼。
4月3日午後10時頃 米軍の重爆撃機一機が本郷原の上空に飛来、爆弾28個を投下。その他、焼夷爆弾による家屋の焼失が相沢、二ツ橋、橋戸でもあり、中でも中村ではほとんどが灰と化したと伝わっている。
1957年10月20日 厚木基地(綾瀬市、大和市)を発着したB57爆撃機が瀬谷町7830付近の山林に墜落し1名が死亡、1961年11月27日にも本郷1丁目54付近にF8Uジェット機が墜落した事故が起きている。
1962年5月 阿久和町の一部が三ツ境になる。
1969年10月1日 戸塚区から旧瀬谷村全域と阿久和町(旧阿久和村北部)が分立し、瀬谷区が誕生する。
1980年 瀬谷町・旭区上川井町・緑区長津田町の一部より卸本町が新設され、現在の区域となる。
1986年10月 三ツ境駅新駅舎竣工。
平成時代
2000年12月11日 環状4号線瀬谷四丁目交差点から日向山地域まで開通。
2002年1月 区内北新の中原街道で三菱自動車製トラックのハブ破損によるタイヤ離脱で母子死傷事故発生。(三菱リコール隠し)
2004年3月28日 瀬谷駅新駅舎竣工。
2012年2月 新庁舎竣工。
経済・産業
商業施設
商業施設は駅周辺とロードサイド店舗などと多岐に渡る。
三ツ境駅周辺
相鉄ローゼン(旧:相高ストア第一号店)の入る三ツ境ライフ、1963年(昭和38年)11月開店。
ダイエー(合併以前は忠実屋)
瀬谷駅周辺
北口 : マルエツ、ユータカラヤ
南口 : ワンピース
区内東部
OKストア(二ツ橋)
OKストア(西友隣、阿久和)
西友(阿久和店、2000年12月12日開店[1])
クリエイトエス・ディー(西友内、阿久和)
区内西部
COOP(生協)、Fuji(環状4号沿い)
クリエイトエス・ディー(下瀬谷、南台)
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西友阿久和店
金融機関
営業中の金融機関
三ツ境駅周辺
みずほ銀行、三井住友銀行、りそな銀行、横浜銀行、横浜信用金庫
瀬谷駅周辺
横浜銀行、八千代銀行、神奈川銀行、横浜信用金庫、城南信用金庫
瀬谷銀行
1907年(明治40年)、瀬谷に設立。1935年(昭和10年)、鎌倉銀行に営業譲渡。鎌倉銀行は1941年に横浜興信銀行(現:横浜銀行)に営業譲渡。2012年現在、横浜銀行中山支店が瀬谷銀行から継承して営業している店舗である。
工業団地
かつて区北部には国鉄所有の土地があり、その跡地を中心にして工業団地が造成された。東名高速横浜町田インターチェンジや国道16号、国道246号に近いことから、横浜総合卸センター(卸本町)や横浜インナーパーク(北町)などの工場団地が集中している。生活協同組合連合会やCOOP、富士シティオ、花王、セコムの物流センター、イトーヨーカドーの物流拠点、読売新聞・日本経済新聞・東京新聞の印刷工場、佐川急便、日本通運、ヤマト運輸などの流通拠点がある。またセコム、清水建設、太平洋セメントグループのテイヒュー(旧帝国ヒューム管)横浜本社・工場、オリックス、などが工場や事務所を置いている。
農業[編集]
区内には開発されていない土地もあり農業も盛んである。上瀬谷の農業専用地区は、横浜市内にある農業専用地区の中でも一番広く、920,000 m²ある。
北部を中心にウド栽培が行われ、その産地は海軍道路周辺に集中する。これは、既に撤廃されている上瀬谷通信隊の周辺における建築物の高さ制限、同地に旧帝国海軍による弾薬庫の遺構が多数残されていたことなどの理由によって、農作物として半地下で栽培できるウドが選ばれたためである。
下瀬谷地区では、露地野菜やハウス栽培が中心。阿久和・南瀬谷地区を中心に芝の栽培が盛んである。阿久和・宮沢地区では、酪農、肉牛、養鶏の農家がある。また各地に直売所がある。
瀬谷区に本社を有する主な企業
テイヒュー 太平洋セメントグループ。旧東証2部。本社・工場:目黒町
瀬谷区に工場を有する主な企業
日本アビオニクス(旧社名:日本アビオトロニクス) – 東証2部(6946) NECグループ。本郷に横浜製作所がある。
セコム – 目黒町にFSセンターを有する。
瀬谷区における株式公開をしたことのある企業[編集]
瀬谷区にかつて本店または本社(工場)機能があった上場企業
住鉱テック(旧社名:東洋端子) – 非上場。会社更生法の適用をうけ再生。
マインマート(旧社名:大門) – 非上場。本社を横浜市中区に移転。日本アジアホールディングス傘下。
ガラスコーティング横浜市瀬谷区
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