お知らせ
艶と硬度を備えた新しいオリジナル コーティング「ドゥレッザ ガラスコーティング」
ガラスコーティング野田市 |欧州・中東で採用の新型「ドゥレッザ」
耐スクラッチ性試験でドゥレッザ ガラスコーティングは市販品最高級ハイモースコートの4倍
従来のガラスコーティング剤は定着していない?塗装の保護になっていない?はこちらをクリック
WESTWAVEInc.楽天市場店はカーシャンプー・ガラスコーティング・コンパウンド・洗車用品などのカー用品を取り扱う公式オンラインショップです。弊社オリジナルブランドのDUREZZAは各種こちらでご購入いただけます。
柔軟性のある最高硬度7h 硬く・しなやかな ガラスコーティング
耐スクラッチ性試験でドゥレッザ ガラスコーティングは「ハイモースコート」の4倍
表面性測定器にマイクロファイバークロスを取り付け、4000回擦った。
ドゥレッザ ガラスコーティングは物理的作用にも強く、耐スクラッチ性にも優れています。
※塗装面と強固に密着したガラス被膜(硬度8H)を形成。被膜硬度は「JIS K 5600-5-4」に準じ、弊社提携研究所にて測定。
「ドゥレッザ ガラスコーティング」は硬い表面の定着性を求めた2層コーティング
上記画像は塗装のようにクリアのある鉄板ではなく、ザラザラした鉄板にガラスコーティング剤を馴染ませるのではなく、実験の為定着しづらいようにスポイトで数滴垂らすと、弊社のガラスコーティングは定着の良い低分子にも関わらずガラスコーティング剤が鉄板から浮いた状態になっております。
ガラスコーティング剤が鉄板から浮いた状態になるのは硬さがあるイコール粘質が強い為に浸透しないことが考えられます。
そこで弊社は浸透性のある硬度7Hドゥレッザをアンカーとして1層目に塗り込み、2層目に硬さを重視した8Hドゥレッザを塗装の保護にすることで定着性と硬さの両方を備えることができました。
※従来の最も高級なガラスコーティングはフッ素の定着性を良くする為にポリシラザンをアンカーにしたり、シランを定着させる為にポリシラザンをアンカーにする手法でしたが、これらの行為は車の塗装がムラになりやすい性質を持っています。
ドゥレッザはディーラー カーコーティング の硬さが2倍以上!膜厚は10倍以上!
通常のカーコーティングのみの施工ですと有機物汚れや酸性雨による腐食予防には強いですが、ウォータースポットには弱いという弱点がありましたがドゥレッザ は柔軟性のある硬く・しなやかなコーティングの他にシリコーンレジンコーティングという無機物汚れやシリケート固着予防がされているので雪国でも強いボディーコーティング剤です。
「ドゥレッザ ガラスコーティング 」の撥水力!撥水角110℃以上は世界ナンバーワン!
ガラスコーティング剤を選ぶ基準!ここが大事!
日本車の塗装の硬さはH~2H位であり、外国車は塗装の硬さが4H位あります。
ガラスコーティングの目的は塗装の保護ですので、外国車を基準にすると5H以上なければ塗装の保護にはならないでしょう。
しかし、ディーラーの9割以上のガラスコーティングがポリシラザンという成分で鉛筆硬度が3Hのものであり、日本車であれば1H硬いので硬いので塗装の保護にはなりますが、外国車を基準にすると塗装の保護にはなりません。
但し、硬ければ硬いほど良いと言うわけではありません。
例として、携帯電話のアイフォンの表面ガラスは9Hあり、1メートル位の高さから落とすとバキバキに割れ、よく割れた状態のアイフォンをそのまま使用している学生さんなんかをよく見かけます。
そして、メガネですが、これは「柔軟性のある7H」ですので、アイフォンのように1メートル位の高さから落下させてもキズは入るかもしれませんがバキバキに割れることはありまん。
なので、ガラスコーティングを選ぶ基準は「5H~7H」までが最適でしょう。
※ドゥレッザ ガラスコーティングは鉛筆硬度7Hになります。
硬さの違いもありますが、カーコーティングの厚さが全く違います。 下記画像の左側は通常のディーラーガラスコーティングの成分であり、右側の画像はドゥレッザ ガラスコーティングになります。 通常のカーコーティングは硬化させても「でんぷん」の粉のようにしかなりませんが、ドゥレッザ ガラスコーティングは本物のガラスなので下記右側のようにガラスになります。 カーコーティングは塗装の保護なので、下記のようなガラスにならないと塗装の保護にはなりません。
DUREZZA(ドゥレッザ)と他社のガラスコーティング剤の違い
上記の画像を見て頂くと明らかにDUREZZA(ドゥレッザ)とディーラー系のガラスコーティング剤は成分の違いはわかって頂けると思いますが、DUREZZA(ドゥレッザ)はガラスのかたまりになり、ディーラー系のガラスコーティング剤は白い粉にしかならないのでガラスコーティング剤の厚さが違います。
DUREZZA(ドゥレッザ)同様にガラスコーティングの厚さに関しては、通販売れ筋販売上位商品と変わりはありませんが、24時間後経過後、DUREZZA(ドゥレッザ)は透明のガラスになってますが、通販売れ筋販売上位商品は粘質のあるガラスが半乾きの状態です。
ガラスコーティングの完全無機質と硬度9H以上の嘘・誇大広告
楽天やAmazonのガラスコーティングの商品を弊社、提携の研究員が遊びに来た時など拝見することがありますが、嘘や誇大広告が酷いよねって話をよくします。
研究所の検査方法で弊社のガラスコーティング剤と他社の4点の商品を比較検討しようかと思います。
よくある完全無機質なんてない!
ガラスコーティング通販、どこかのガラスコーティング専門店で「完全無機質」などの言葉聞いたことはありませんか?
「無機質」まではOKですが、「完全無機質」ってガラス成分100%ですよね。
仮にガラス成分が100%ですとタダのガラスなので塗装やその他の物質に定着しません。
定着させるにはシリコンやチタンの物質が必要です。
これだけで100%じゃありません。
完全無機質は定着しないガラスコーティングですよと言ってるのと同じです。
下記の画像はステンレスの上に各々のガラスコーティング剤を塗り込みました。
上記画像ガラスコーティング剤の違いはどドゥレッザはほぼ透明なのに対し、他の商品は虹色や白化しております。
虹色や白化するのはガラスコーティングの成分の中に含有量が多いので、上記のような状態になります。
ドゥレッザのガラス成分は92~93%位になり、1番右側のガラス成分3割は弊社で用意したガラスコーティング剤で含有量が多いので若干、虹色ですが、楽天上位商品はさらに虹色になっています。
楽天上位商品の6Hというのがあり、特に虹色にもなっていなく水玉模様になっているのはガラス成分と触媒が上手くかみ合っていないのと、この成分がそもそもガラス系とは違う、塗料系だからではないかと思います。
楽天上位商品の9Hの虹色の原因はガラスコーティング剤の定着からあまり使用されていないスズが原因かと思います。
凡そでありますが、研究員になるとガラスコーティング剤の匂いを嗅いだだけでわかる場合もあります。
結果、成分が透明のドゥレッザですらガラス成分は92~93%位なので、画像の色だけで判断してもそれ以下のガラス成分ですので、「完全無機質」はあり得ないということです。
ガラスコーティング剤の硬さ・硬度
よくあるJISの硬度試験というのは鉛筆を下記のような車に設置して傷をつける試験になります。
たまにモース硬度とかありますが、試験内容にモースはありません。
あくまで鉛筆硬度です。
JISの試験は6Hまでしかないので、弊社で5H~9Hの鉛筆を用意しました。
下記の画像は各々の鉛筆で傷をいれた後の画像になります。
上記、画像で横に傷が入っているのがわかりますか?
下記、画像は傷の確認をわかりやすくする為に横向きにしました。
他社の製品は鉛筆硬度5Hで全てのガラスコーティング剤に傷が入ったので試験結果は4H以下になります。
通販サイトでは9H,6Hと記載してるので、ここまで弱いと思わなかったので3H以下の鉛筆も用意すれば良かったのですが。
ドゥレッザは9Hで傷が入っているので試験結果は8Hになります。
弊社では7Hだと思っていますが。
試験結果はいかがだったでしょうか。
たまに鉛筆は6Hまでしかないから、他社に7Hってなんなんだ!って言われますが、鉛筆は10Hまであります。
逆に硬度13Hや15Hなどの誇大広告のエスカレートがありますが、鉛筆は10Hまでしかないので、どういうふうに試験したのか疑問です。
弊社や研究員の考えとしてはガラス(鉛筆硬度8H)より硬いガラスコーティング剤は存在しないので、ガラスコーティング剤は鉛筆硬度7Hが限界であり、飛び石に勝てるガラスコーティングはありません。
また、今の技術では7Hが限界ですが、それでも傷が入らないことは絶対にありません。
これを糧にガラスコーティング剤を判断して頂ければと思います。
新しいガラスコーティング剤: 低分子シラン ドゥレッザ ガラスコーティングとは
従来のガラスコーティングとは違う硬く、しなやかな最強無機質ガラスコーティング
ガラスだから硬いのは当たり前、衝撃や湾曲などのストレスによるひび割れが発生しにくい柔軟性を持たせました。
柔軟性が(硬いだけより)耐傷性を高めます。また、酸化劣化しないことと合わせ、将来の剥がれ、ひび割れ等の弊害に対する心配ををゼロにします。
ドゥレッザ ガラスコーティングは単一成分98%の高密度ガラスコーティングです。限りなく無機質に近いコーティング剤ですが2%のアルコキシドを混合する事により3~4ミクロンの甲膜厚を実現しました。また硬度7hの高度を持ちながら高膜厚のコーティング剤でもあり非常にバランスのとれた撥水角100℃を超えた撥水性ガラスコーティング剤です。
Hard-supple 硬く・しなやか
衝撃や湾曲などのストレスによるひび割れが発生しにくいガラスコーティングでは最高硬度の7h!
セラミックガラスコーティングのように9hなど硬さが増すほどクラックが発生しやすくなります。
このため弊社のガラスコーティング剤では、多少の柔軟性を持たせて、あえて鉛筆硬度9Hとはせずに7H前後に調整して、クラックの発生を防いでいます。
※ペルヒドロポリシラザンは高硬度9hであるが、クラック発生を防ぐため膜厚は薄く、意外にも微細な擦過キズにも弱く、膜厚をあげるために何層にもコーティングを施工すると剥離する。
ディーラーガラスコーティングは殆どがオルガノポリシロキサンを使用しており高分子の為、定着性が粘着テープのような定着性の為、柔軟性はあるが硬度が3h位しかなく耐久性も実際は1年半位。
弊社ガラスコーティングは低分子シランガラスコーティングの為、高硬度7h~8hであるが柔軟性があるためクラックしづらく、また、低分子のため塗装面の微細な凹凸に浸透しやすく、強靭な密着力が違う。
他社で完全無機質でガラスが完全に固まるぐらいの硬化で3μ以上の膜厚になれば劣化します。
上記のような硬化が塗装のうえで定着するとは考えづらい。
薄いプロテクションフィルムにドゥレッザ ガラスコーティングを実験の為、厚塗りしました。
ドゥレッザ ガラスコーティングを塗ったプロテクションフィルムを指で曲げても、ひび割れしません。
通常のガラスコーティングですと、数μでもここまで曲げるとひび割れしますが、ドゥレッザ ガラスコーティングは低分子の為、膜厚が厚く、そして硬くても衝撃や湾曲などのストレスにも強い。
硬度とクラック
硬度が硬いほど良いと言われるガラスコーティング商品やサービスがありますが、ガラスコーティングは化学合成品であるため、被膜の硬さが増すほどに脆く壊れやすくなり、「クラック」と呼ばれる微細なひび割れ損傷が発生しやすくなります。
クラックは硬化の過程や使用中の物理的化学的刺激などより発生し、見た目の「クスミ・濁り」になったり、「被膜が剥がれ落ちやすくなる」ことの弊害の原因になります。
今の技術で作ることができるガラスコーティング(非晶質ガラス)は、鉛筆硬度9H程度が最高硬度となりますが、コップや窓ガラスなどの厚みのあるものと比べて、ミクロン(μm)単位の被膜では硬さゆえの脆さの影響が大きくなります。
クラック発生を回避するためには、少し粘り気を持たせる必要があり、6H~8H程度の硬度が最適であると考えます。
膜厚と硬度
膜厚はある程度厚い方が良いと思います。しかし硬度が同じ場合被膜が厚くなるほどクラックが発生しやすくなりますので、上記のような若干の粘り気のある6H~8H程度のガラスコーティングでは2~4μm前後の膜厚が、微細な傷からの保護という意味でもバランスが良いのではないかと考えます。
硬度が同じ場合は、膜厚が厚くなるほどクラックが発生しやすくなるため、硬度9H程度のガラスコーティングでは0.5μm~1μm程度の薄い膜にしないと、クラックの発生が問題になります。
このように余りにも薄い被膜では、摩耗や微細傷も塗装まで達してしまう可能性が高まります。
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野田市(のだし)は、千葉県北西部の東葛地域に位置する都市。人口約15.5万人で、千葉県内では12位。東京都特別区部への通勤率は13.0%(平成22年国勢調査)。
地理
千葉県の最北端の市である。関東平野のほぼ中央に位置しており、市の東を利根川、西を江戸川、南を利根運河によって、三方を河川に囲まれている。利根川を挟んで対岸が茨城県、江戸川をはさんで対岸が埼玉県である。
野田という地名の由来は諸説あり定まっていない。有力な説に「野田右馬助という武将が館を構えたことに由来する」というものがあるが、逆に「野田の地名を取って野田右馬助を名乗った」とする説も存在し、はっきりしない。
東武鉄道野田線「野田市駅」周辺はキッコーマンの創業地であり、ここから毎日、全国に醤油が出荷されている。
河川等
江戸川
利根川
座生川
逆川
利根運河
関宿用水路
野田市
先史・古代・中世
野田は江戸時代以前の記録に乏しいが、小規模な遺跡が点在しており、古くから開かれていた土地であることがわかる。古代の遺跡としては野田貝塚、山崎貝塚などが残っており、中規模の集落があったとみられている。
中世の遺跡としては、後三年の役で活躍した鎌倉景政の居城や、古河公方の重臣・野田右馬助の居城があったと伝えられている。ただし遺構は発見されていない。
また尾崎には、鎌倉幕府の有力な御家人だった野本家定の城館と伝えられる、比較的規模の大きい城館跡も残っている。木野崎には、国人の一色数馬の城館跡が残っており、豊臣秀吉の派遣した軍との戦いがあったと伝えられている。
江戸時代
徳川家康の江戸入府後には、1590年(天正18年)に岡部長盛の居城が山崎に築かれ、のちに堤台に移ったと伝えられている。
「下総山崎藩」を参照
これらの遺構や伝承はある程度残っているものの、記録が少ないため中世の情報はわからないことが多い。
野田は江戸時代に入るとやや記録が増える。これは、大消費地となった江戸に出荷する醤油産業が興り、恵まれた水運を利用して、醤油の一大ブランド地として栄えていったためとされる。陸上交通として、日光東往還が通されたため、山崎宿・中里宿などの宿場も興った。
近代以後
1889年(明治22年)4月1日
野田町・清水村・上花輪村・中野台村・堤台村・桜台村の飛地・今上村の飛地が合併して野田町が置かれる。
大殿井村・目吹村・鶴奉村(明治7年、鶴嶋新田と奉目新田が合併)・柳沢新田・宮崎新田・中根新田・横内村・花井新田の飛地が合併して旭村が置かれる。
山崎村(明治初期、亀山新田を編入)・今上村・桜台村・花井新田・堤根新田・宮崎新田の飛地・清水村の飛地・上花輪村の飛び地が合併して梅郷村が置かれる。
谷津村・吉春村・蕃昌新田・五木村・五木新田・岩名村・座生新田・尾崎村の飛地が合併して七福村が置かれる。
東金野井村・中里村・船形村・尾崎村が合併して川間村が置かれる
木野崎村・三ツ堀村・瀬戸村・二ツ塚村・上三ケ尾村・西三ケ尾村・下三ケ尾村・大青田村の一部(利根運河の北側)が合併して福田村が置かれる。
野田市の年表
1895年(明治28年)
梅郷村のうち江戸川右岸(今上の一部)を埼玉県北葛飾郡旭村に編入。
旭村が埼玉県中葛飾郡金杉村大字金杉の飛地を編入し大字金杉を設置。
1899年(明治32年) – 川間村が茨城県猿島郡中川村の一部(利根川以南)を編入し大字小山・筵内・長谷を設置。
1917年(大正6年) – 高梨家・茂木家など在郷醤油醸造家が合同して設立されていた野田醤油醸造組合が株式会社となる。
1921年(大正10年) – 野田醤油労働争議が勃発。全国から労働運動家が来訪。
1923年(大正12年) – 福田村事件が起こる。
ウィキソースに昭和25年6月8日総理府告示第177号「市町村の廃置分合」の原文があります。
1950年(昭和25年)5月3日 – 野田町・旭村・梅郷村・七福村が合併し、野田市となる。
1951年(昭和26年)1月1日 – 川間村の一部を野田市に編入する[1]。
1951年(昭和26年)七福地区に大字七光台を設置。
ウィキソースに昭和32年3月30日総理府告示第144号「市町の廃置分合」の原文があります。
1957年(昭和32年)4月1日 – 川間村・福田村を合併。
1961年(昭和36年)9月1日 – 関宿町との境界を変更する。
1965年(昭和40年) – 川間地区に日の出町を設置。
1966年(昭和40年) – 東京理科大学野田校舎(現在の野田キャンパス)が竣工。
1971年(昭和46年) – 野田地区に中野台鹿島町を設置。
1973年(昭和48年) – 野田地区に上花輪新町を設置。
1978年(昭和53年) – 七福地区に春日町・五木新町を設置。
1980年(昭和55年) – 七福地区に岩名一丁目・岩名二丁目を設置。
1982年(昭和57年) – 野田工業団地造成完了。
1983年(昭和58年)11月19日 – 南部地区に山崎貝塚町を設置。
1988年(昭和63年) – 七福地区に大字谷吉を設置。
1989年(平成元年) – 南部地区に大字山崎梅の台を設置。
1995年(平成7年) – 川間地区に大字尾崎台を設置。梅郷地区に花井一丁目を設置。
1999年(平成11年)10月1日 – 関宿町との境界を変更する
2002年(平成14年)3月2日 – 南部地区にみずき一丁目・みずき二丁目・みずき三丁目・みずき四丁目を設置[5]。
ウィキソースに平成15年4月4日総務省告示第288号「市町の廃置分合」の原文があります。
2003年(平成15年)6月6日 – 関宿町を編入合併し、現在の野田市となる。
2006年(平成18年)
9月 – 野田地区に清水公園東一丁目・清水公園東二丁目を設置。
10月 – 野田地区に桜の里一丁目・桜の里二丁目・桜の里三丁目を設置。
1970年代以降、国道16号沿線に工場や物流施設が多数移転し、東武野田線を通勤路線として東京のベッドタウン化が進む。しかし、1990年代以降都心回帰現象の影響を受け、青年男子層が進学・就職を機会に市外に流出、高齢化の進展を見ている。
近年都市再生機構が市南部みずき(旧山崎)地区に開発を進めている野田みずきの街や、つくばエクスプレスの開業により東京都心へのアクセスが早くなった事から、人口は再び増加に転じている。
旧関宿町
江戸時代以前
室町時代より関宿城が築かれ古河公方に仕えていた簗田氏が支配する。戦国時代には、簗田氏はたびたび後北条氏と争った。関宿合戦と呼ばれる。
江戸時代
江戸時代には関宿藩がおかれ、徳川譜代の大名が城主を務めた。以後、関宿城の城下町として栄える一方、現在の江戸川と利根川の分流点に位置したため河岸ができ、また水上交通の要衝として関所が置かれた。また日光東往還の宿場として、陸上交通の要衝でもあった。下総有数の繁華の土地であり向河岸・境町も含め人口数万の繁栄を誇った。
近代以後
廃藩および舟運の衰退により以前の繁栄は失われ往時の繁栄を見出すことは難しい。一方において、橋幸夫の「潮来笠」に登場する実在地名だったので、中高年者には利根川岸の一小邑として広く知られた。大映映画「潮来笠」の舞台にもなった。橋は地名消失の報に接しすこぶる残念に思い、合併後の2005年(平成17年)に当地を訪れている。
バブル崩壊以降東京通勤圏の域外と見なされ、県内地価下落率の上位地点となったうえ人口が毎年減少を続けてきた。特に最大集落、大字木間ヶ瀬は年間100人を超える人口減が起こっている[7]。南部地区は逆に毎年、人口が増えている。
経済
農業
全国有数の枝豆の生産地
県内最大の麦の作付面積を誇る
農協
ちば東葛農業協同組合
工業
醤油業界最大手のキッコーマン株式会社と白醤油部門では業界最大手のキノエネ醤油株式会社があるため、国内3分の1程度のシェアで生産する日本最大の醤油生産地。
工業団地
野田工業団地(主な企業 大黒ヂーゼル工業所、坂自動車など)
南部工業団地(主な企業 雪印メグミルク、日立物流、日立建機レックなど)
北部工業団地(主な企業 サンデリカ、リクシルなど)
中里工業団地(主な企業 LIXIL、敷島製パンなど)
関宿はやま工業団地(主な企業 味の素物流、セキノ興産など)
泉船形工業団地(主な企業 センコー、ロジパートナーズなど)
市内に本社を置く主な企業[ソースを編集]
梅屋 (千葉県)、医薬品・医療機器・医療用検査
キッコーマン
キッコーマン食品
キッコーマン飲料
キッコーマンビジネスサービス
キッコーマンバイオケミファ
野田産業科学研究所
キノエネ醤油
SAKURA(青果食材チェーン「新鮮一」)
サトーインプレス(旧三協印刷社)
SUMCOテクノロジー
ジョイ・フローラ
千秋社(清水公園)
中央コントロールサービス
ナカオサ
日本一(惣菜チェーン「日本一」)
野田ガス
野田食菌工業
ホワイト餃子本部
森永スナック食品(森永製菓の子会社)
UPGホールディングス
市内に事業所がある主な企業[ソースを編集]
赤城車体工業(野田工場)
アマダミヤチ(野田事業所、旧ミヤチテクノス)
アルフレッサ ホールディングス
アルフレッサ ファーマ(千葉工場、千葉配送センター)
キッコーマン食品(野田工場、研究本部、東東京支店)
サカタインクス
SUMCO
敷島製パン
センコー(野田第1PDセンター、イオン北関東RDCセンター、野田第2PDセンター)
天馬
東京電力(新野田変電所)
東武鉄道(南栗橋車両管区七光台支所)
トナミ運輸
三菱電機ロジスティクス
三菱商事ロジスティクス
日立建機レック
日立物流
ペーパーウェア (株式会社)(千葉工場)
ユー・エス・エス(東京会場)
雪印メグミルク(旧雪印乳業野田工場)
リクシル(総合技術研究所、七光台工場)
商業施設[ソースを編集]
ショッピングセンターノア(イオン、他 多数店舗あり)
ショッピングセンターパルノア(トイザらス、ダイソー、スポーツオーソリティ、他全4店舗。法律上はショッピングセンターノアの増設となっている。)
みずきショッピングセンター(いなげや、ホーマック、ココス、他全13店舗)
ウニクス野田(ヤオコー、Right-on、スギ薬局、他多数店舗あり)
イオンタウン野田七光台(マックスバリュ、ロイヤルホームセンター、七光台温泉、TSUTAYA、ウエルシア、他多数店舗あり)
桜の里ショッピングセンター(ベイシア、カインズホーム)
ベルクスステーションモール七光台(スーパーベルクス、スギ薬局、ダイソー等)
ザ・プライス野田店(2003年までイトーヨーカドー野田店が同じ場所で営業していた。その後更地となり、2013年に同じセブン&アイ・ホールディングスのザ・プライスが新規建設された。)
野田船形ショッピングセンター(SPORTS DEPO、CoCo壱番屋、やよい軒)
他に市内には、野田地域(中心市街地)があるほか、旧日光街道沿い、川間駅周辺に商店が集中する。
温浴施設
かつて大利根温泉があったが、近年スーパー銭湯などの温浴施設が増えている。近隣市町村の温浴施設とも激しい競合が行われている。これらの温浴施設は半径5km以内に集中している。
野天風呂湯の郷
グランローザ潮の湯(旧称、東武スパ・リゾート野田 潮の湯)
七光台温泉
宿泊施設
ホテルグランボワ(旧野田東武ホテル)
クリアビューゴルフクラブ&ホテル
ゴルフ場[ソースを編集]
野田市パブリックゴルフ場(ひばりコース・けやきコース)
千葉カントリークラブ(野田コース・川間コース・梅郷コース)
紫カントリークラブ(すみれコース・あやめコース)
クリアビューゴルフクラブ
テニスクラブ
野田 テニスクラブ(閉会)
川間グリーン テニスクラブ
パルシステム テニスクラブ(閉会)
オークランド テニスクラブ
ロイヤルSC テニスクラブ
教育
近代以前の野田の教育
江戸時代、野田(旧野田町地域)は天領や旗本の知行地で野田には支配者としての武士階級の者が住むことはほとんどなかった。したがって江戸時代の教育を支えた藩校といった教育機関もなく、幕末を別にすれば寺子屋といったものもあまりなかったとみられる。著名な学者を生んだとか学者が住んだというような歴史もなくごく平凡な農村地域であった。江戸時代の旧野田町地域は、教育が進んだ地域ではなく、読み書きができたのは村役人や僧侶、医者、浪人など限られていたとみられる。幕末には全国の傾向と同じく野田にも庶民に教える寺子屋が多くできたが、その大半は僧侶や医者が教えるもので、何を教えたのかについては不祥なものが物がおおいが、わかっているものでは基本的な読み書きやそろばん算術など、女子には裁縫などを教えていたものとみられる。それに対して関宿地域は関宿藩の領地で武士も住み、武士の子弟の教育のため藩校も開かれ、それを教えるために学者も招かれていた。関宿では旧野田地域とは違い、武士ばかりではなく優秀であれば百姓町民も学ぶことができたようである。佐藤真著『のだしー歴史の中の野田ー』1981年聚海書林、120~125ページ
明治5年明治政府は学校制度の整備を始め、全国を8大学区256中学区53760小学校区にわけそれぞれに小学校を設けることにした。野田では明治6年の愛光小学校(これはすぐに野田小学校と改名し、さらに大口寄付者の名により茂木小学校と改名する)が開校するなど明治5年から8年にかけて小学校が次々と開校していった。しかし初期の教育制度は未整備で学校制度は様々な試行錯誤を重ねていく。