お知らせ
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日産自動車株式会社(にっさんじどうしゃ、英称:Nissan Motor Co., Ltd. )は、日本の自動車メーカーである。通称とブランド名は「日産 (NISSAN) 」。日本国外の一部では、高級車ブランドである、「インフィニティ (INFINITI) 」も展開する。
概要[編集]
本社は神奈川県横浜市西区高島1丁目1番1号。芙蓉グループ(旧富士銀行系列)に属する東証一部上場企業であり、現在はフランスの自動車製造大手ルノーとアライアンスを結んでいる。
日産自動車の関連会社には、委託製造会社である日産車体、モータースポーツ専門のニスモなどがある。また、国外では高級車の「インフィニティ」ブランドおよび新興国向けの低価格車ブランド「ダットサン」での展開も行なっている他、親会社のルノーの車種を「日産」ブランドで販売している(ルノー・ジャポンは日産グローバル本社屋内に籍を置く)。
現在親会社のルノーから派遣されたレバノン系ブラジル人(フランスとの2重国籍)のカルロス・ゴーンが代表取締役会長兼社長兼最高経営責任者(CEO)を務める。なお、ゴーンは2005年4月より親会社のルノーの取締役会長兼CEO (PDG) も兼任している。現在、日産自動車の経営は、ゴーンCEOの指揮の下で、最高執行責任者(COO)を置かずに、西川廣人、アンディ・パーマー、トレバー・マンの副社長3人が最高執行責任者(COO)の役割を分担している。
日産自動車の2010暦年のグローバル販売台数及び、グローバル生産台数は共に400万台を超え、日本の自動車メーカーとしてはトヨタ自動車に次いで2番目に400万台の大台を突破した[1]。
歴史[編集]
創業 – 1970年代[編集]
旧本社(東京都中央区銀座六丁目)
第二次世界大戦前は日産コンツェルンの一員であった。「日産」という名称は、当時グループの持株会社であった日本産業が由来となっている。
創業期より先進技術の吸収に積極的で、日産自動車は日本フォードや日本ゼネラル・モータースなみの大型乗用車を製造するため、1936年(昭和11年)にアメリカのグラハム・ペイジから設計図や設備などを購入し、また戦時中の技術的空白を埋めるため、1952年(昭和27年)にイギリスのオースチンと技術提携している。
1958年(昭和33年)には、当時世界で最も過酷なオーストラリア大陸一周ラリーに自社開発のダットサン・210型で出場して見事にクラス優勝を飾り、1960年(昭和35年)には業界初のデミング賞を受賞するなど、創業時より技術力の高さから「旗は日の丸、車はダットサン」、「技術の日産」として親しまれ、故障が少なく高速走行を得意としたことで医者の往診に愛用されたことから「医者のダットサン」としても親しまれた。
1966年(昭和41年)8月1日には、経営難に陥ったプリンス自動車工業を通産省主導により合併。名車スカイライン、グロリアなどの車種と、中島飛行機・立川飛行機の流れを汲む優秀な人材を戦列に加えた。またプリンス自動車工業の宇宙開発事業を承継し宇宙航空事業部を発足させた。
1973年(昭和48年)の米国環境庁 (EPA) の燃費テストでサニーは第1位となり、この間、燃費向上のための高張力鋼板およびボディの防錆性の向上のための亜鉛ニッケルメッキ合金を用いた防錆鋼板(同社では「デュラスチール」と命名)、エンジンの燃焼制御技術の開発からCAD/CAM、産業用ロボットの開発まで、「技術の日産」として先端技術分野の先駆的役割を果たしてきた。
しかし、その反面、戦時中に自動車の配給を独占していた「日本自動車配給株式会社」が戦後に解散となった際、日本国内各地の地元の有力ディーラーの大半がトヨタ自動車に組織化されたために販売力でハンディとなってしまい、技術面では「技術の日産」と評されるほどに優位を保っていた反面、販売面では「販売のトヨタ」と評されるほどのマーケティングと販売戦略で業界トップとなったトヨタ自動車には及ばず、1970年代までトヨタに肉薄していた日産の販売シェアは、特に1980年代以降、その差が広がる一方となる。
901活動[編集]
1980年代には「90年代までに技術世界一を目指す」という名の下、全車種を対象にエンジンをはじめ、シャシやサスペンションの設計目標と、走行実験におけるハンドリング評価基準の大幅な底上などに力を注いだ「901活動」がおこなわれており、日本車の技術向上に大きく貢献したことでは一定の評価を受けている。
詳細は「901運動」を参照
1980年代後半のバブル景気時代には、K10型マーチをベースにしたパイクカーの第一弾として限定10000台で発売され2ヶ月で予約完売となったBe-1や、当時日本唯一の3ナンバー専用の高級車であったY31型シーマや、洗練されたデートカーとして人気となったS13型シルビアなどをヒットさせ、「Be-1効果」や「シーマ現象」なる流行語まで生みだし、「901活動」のもとで開発されたR32型スカイラインなどのスポーツ系車種をはじめとしてP10型プリメーラなどのセダン系車種なども高い評価を得るなど存在感を示していた。
経営危機[編集]
しかし、「901活動」のもとで開発されて高い評価を得るなど存在感を示していた車種は、1991年から1994年にかけてフルモデルチェンジの時期が到来し、新型車として発売された、U13型ブルーバード4ドアセダンSSS・EEX、JY32型レパードJフェリー、C34型ローレル、R33型スカイライン、S14型シルビア、B14型サニーなどの各車種は、「901活動」のもとで開発されて高い評価を得るなど存在感を示していた旧型とは一転して、デザインや商品面で評価が低い結果となってしまい販売不振に陥ってしまった。
さらに、バブル景気が終わった影響で、高価格で収益性の高いシーマやセドリック、グロリアなどの高級車の販売が減少した上に、もともと商品企画や販売戦略が不得意な上にヒット車種を数多く出せないこと、さらに過激な組合運動に足を引っ張られ抜本的なコスト削減もままならないまま財務内容はますます悪化の一途を辿り、「901活動」でコスト上昇を招いた走行実験部やデザイン部を中心としたリストラを断行してもなお1998年には約2兆円もの有利子負債を抱え経営危機に陥ってしまう。その中でも、A32型セフィーロ、E50型エルグランド、K11型マーチなどがコンスタントに販売台数を記録して経営危機に陥っていた日産を支えていた。
その後、軽自動車市場の拡大を背景に、軽自動車を含めた国内シェアで、一時期ではあったがホンダの後塵を拝し、国内シェア第3位に転落してしまった時期があった。現在は、軽自動車販売のシェアがホンダと逆転したため、国内シェア第2位[2]に返り咲いている。
ルノー傘下へ[編集]
カルロス・ゴーン
継続的な販売不振により、2兆円あまりの有利子債務を抱え倒産寸前の経営状態となった1999年3月に、フランスの自動車メーカーのルノーとの資本提携(後述「ルノー=日産アライアンス」)を結び、同社の傘下に入り更生を図ることとなった。当初は両社の文化的土壌の違いやラインナップの重複、日産自動車の負債の大きさや労働組合の抵抗などを理由に、同業他社やアナリストをはじめとする多くの専門家がその行き先を危惧した。
同年中に日本人社長の塙義一は解任され、ルノーの取締役会長兼CEO (PDG) であったルイ・シュヴァイツァーの指示より同社副社長のカルロス・ゴーンが新たな最高経営責任者に就任した。ゴーンらのチームは、同年10月に発表した「日産リバイバルプラン (NRP)」のもとリストラを進めた。
ルノーから資金や人員が注入されると同時に、東京都武蔵村山市にあった日産自動車村山工場や、京都府宇治市の日産車体京都工場などの生産拠点の閉鎖、資産の売却や人員の削減とともに、子会社の統廃合や取引先の統合、原材料の仕入の見直しなどによってコストを削減した。またこれに先立って外国企業の影響を避けるため、宇宙航空事業部が石川島播磨重工業に売却され、IHIエアロスペースが設立された。
更に、車種ラインアップの整理と同時にデザインなどを刷新し、積極的な新車投入を行った結果、販売台数は増加した。国内シェアでは第2位の座を奪回し、2003年6月には負債を完済した。
ルノー=日産アライアンス[編集]
ルノー=日産アライアンス
両社共通の「アライアンス・Bプラットフォーム」を使用する日産・ティーダ
2006年5月現在、ルノーは日産株の44パーセントを所有し日産を連結子会社としているが、日産もルノー株全体の15パーセントを所有しており一部持合となっている。なおフランスの法律によって日産の保有するルノー株は日産が保有する間は議決権が行使できない。資本関係上は日産がルノーの連結子会社となる。
さらにルノーからは多くが日産の役員として送り込まれているほか、多くの管理職クラスの人員も送り込まれているが、ルノーに日産出身の役員は皆無であった(2008年にルノーに日産から副社長が送り込まれている)。株式資本の総額は子会社の日産本体のほうが多く「日産に投資するより、親会社のルノー本体に投資するほうが利にかなう」逆転現象が起きている。
ビジネス上では、車台(プラットフォーム)やエンジン、トランスミッションなどの部品の共通化や購買の共同化によってコストダウンを図っているほか、ルノーの車を日産ブランドで販売、日産車をルノーのブランドで販売するなどの相互のOEM供給も行っている。また、同じルノー傘下である韓国のルノーサムスンにおいてもこのアライアンスを生かし、自社はもちろん、ルノーや日産ブランドでの製造・輸出を行っている。2005年1月には、当時のルノー会長のルイ・シュヴァイツァーが、「2010年までに日産自動車とともに世界市場の10%のシェアを確保し、年間400万台の生産を達成する」という目標を掲げた。ルノーは傘下の日産を含めて、自社が「フォルクスワーゲングループを上回る欧州最大の自動車メーカーである」と述べている。
現在[編集]
ゴーンは日産自動車の建て直しの手腕が高く評価され、2005年4月からは親会社のルノーの取締役会長兼CEO (PDG) も兼任している。2013年11月までは、ゴーンCEOの指揮の下で日産自動車生え抜きの志賀俊之が最高執行責任者(COO)を務めていた(現在は日産社内での最高執行責任者(COO)職は設けていない)。
2008年には、サブプライムローン問題に端を発した金融危機や原油高騰による不況の中、世界販売台数は0.9%増加し、アメリカでは自動車販売台数が18%減少の中、日産は10.9%減にとどまった。
2007年春に、企業誘致に熱心な横浜市の「横浜みなとみらい21 (MM21) 地区」66街区に本社社屋の建設を着工し、2009年8月2日に「横浜グローバル本社」として竣工した。2009年8月7日に、長らく本社のあった東京・東銀座から移転(登記簿上の本店は、横浜市神奈川区の横浜工場のまま)。当初は、2010年をめどに移転する予定であったが、2009年に横浜開港150周年を迎えるを機に1年前倒しとなった。この本社立地にあたり、神奈川県から施設整備等助成制度及び横浜市から企業立地等促進特定地域における支援措置を受けることができた。新社屋は建築家谷口吉生の設計
なお、東京・東銀座の旧・本社社屋は、読売新聞グループ本社と読売新聞東京本社が建て替えに伴う間の仮本社として2010年9月から2014年1月まで使用していた。この建物は、今後三井不動産が2015年1月の完成を目途に一部改修したうえで、同社の本社機能の一部を移転させるとしている。これは現在の三井不動産本社がある中央区日本橋室町の「三井別館」が、再開発事業により取り壊されるためによるもの。
前史[編集]
ダットサン15
ダットサン1000
プリンス・スカイライン
(初代)
フェアレディZ
(初代S30型系)
スカイラインGT-R
(BNR32型)
X-TRAIL・クリーンディーゼル
(T31前期型)
セレナ・ハイウェイスター
(先代C25型)
GT-R
(現行R35型)
1910年 – 福岡県遠賀郡戸畑町(現在の北九州市戸畑区)に「戸畑鋳物株式会社」設立。
1911年 – 東京市麻布区(現在の東京都港区麻布)に「快進社自働車工場」設立。
1919年 – 大阪府に「実用自動車製造株式会社」設立。
1926年 – 「実用自動車製造株式会社」と「快進社自働車工場」が合併し、「ダット自動車製造株式会社(本社:大阪)」設立。
1931年 – 戸畑鋳物株式会社(現在の日立金属)(社長:鮎川義介)がダット自動車製造を傘下に入れる。(事実上の企業買収)
1932年 – 吉崎良造により「ダットサン商会」設立、ダットサンのブランドが誕生。
1933年 – ダット自動車製造と石川島自動車製作所が合併し自動車工業株式会社[4]が横浜市神奈川区に設立される。
1933年 – 戸畑鋳物株式会社がダット大阪工場を70万円で購入。しかし、ダットサン(自動車)の製造権と設計技術者の後藤敬義、そして一群の人員は自動車工業株式会社に残る。
沿革[編集]
1933年 – 戸畑鋳物株式会社の鮎川義介の懇願により、製造に関する一切の権利を自動車工業株式会社より「ダットサンの製造権」[5]を無償で譲り受ける。12月に鮎川義介はダットサンの製造のために日産の歴史の第一歩となる「自動車製造株式会社」[6]を横浜市に設立する。
1934年 – 6月1日に日産自動車株式会社に改称した。創業者は戸畑鋳物株式会社社長の鮎川義介である。鮎川は創立と同時に同社取締役社長に就任した。
1944年 – 9月、東京都日本橋区(現在の中央区)に本社移転。日産重工業株式会社に商号変更。
1946年 – 1月、本社事務所を再び横浜市に移転。
1949年 – 8月に「日産自動車株式会社」の商号に復帰。
1952年 – イギリスのオースチン社との技術提携を元にしたオースチン・A40サマーセットのノックダウン生産を開始。
1953年 – 12月、民生デイゼル工業に資本参加。
1955年 – 6月、民生デイゼル工業との折半出資による販売会社・日産民生ジーゼル販売を設立。
1960年 – 12月、民生デイゼル工業を日産ディーゼル工業に、日産民生ジーゼル販売を日産ディーゼル販売に社名変更。
1966年 – スカイライン、グロリアを持つ「プリンス自動車工業株式会社」(富士重工業等と共に分割解体された旧中島飛行機の一部で、冨士精密工業の後身)と合併。
1967年 – 宮内庁に、初の国産御料車「プリンスロイヤル」を謹製・納入
1968年 – 東京都中央区銀座木挽町に本社事務所を移転。
1969年 – 「ダットサン・フェアレディ」の後継車、「日産・フェアレディZ」登場。
1970年 – マリーン事業(プレジャーボート)に進出。
1970年代 – 1990年代 – 第二次世界大戦後からシェアを積み上げ、一時はトヨタ自動車につぐ日本国内第2位のシェアを占めていたが、日本国内の日産車のシェアが年々低下の一途を辿り、経営陣と塩路一郎委員長率いる強固な労働組合との激しい抗争が長期に及び、1980年代後半には901活動による車両性能の向上と共に個性的なエクステリアデザインや商品戦略が各界から高く評価されて日産自動車全体のブランドイメージが向上するも、1990年代に入り、バブル景気の崩壊後は財務が悪化した上、デザインや商品戦略などの相次ぐ失敗で販売不振に陥り、経営危機が深刻化する。
1981年 – 7月、国内向けの一部車種と日本国外向けの車種に設けられていた「DATSUN」ブランドを廃止して、順次「NISSAN」ブランドへ変更して統一する方針を発表。
1985年 – 8月、社長が石原俊(事務系出身)から久米豊(技術系出身)になり、今までの官僚経営から技術中心の経営、後の901活動を推進する経営と変えていった。
1987年 – 6月19日、Y31型セドリック・グロリア発売。グランツーリスモ系初設定。大ヒットする。このことにより、後のインフィニティ・Q45の発売を決定する。パイクカー・Be-1限定発売。大ヒットする。
1988年 – 日本初の3ナンバー専用車・セドリックシーマ・グロリアシーマを発売。大ヒットとなり、シーマ現象なる言葉ができた。 新ブランドセダン・マキシマ・セフィーロを発売。
1989年 – スカイラインGT-Rが復活。フラッグシップセダン・インフィニティ・Q45日米同時発売。アメリカにて高級車専門の「インフィニティ」ブランドを展開。車種は、インフィニティQ45とインフィニティ・M30の2車種であった。
1994年 – 三星自動車(現、ルノーサムスン自動車)への技術支援を行う。
1999年 – 3月に、フランスのルノーと資本提携し、ルノー=日産アライアンスを結成しルノーの傘下になる。6月にルノー副社長のカルロス・ゴーン(現CEO)が最高執行責任者(COO)に就任し、経営再建計画である「日産リバイバルプラン」を発表した。
2000年 - フェアレディZ生産中止。Zの名前が2年近く消滅する。
2001年 – ゴーンが6月に社長兼最高経営責任者(CEO)となる。
2002年 – スズキより、軽自動車「MRワゴン」のOEM供給を受け、「モコ」として発売開始。軽自動車市場へ参入を果たし、ゴーンが「日産リバイバルプラン」の目標達成を宣言した。また、フェアレディZが2年ぶりに復活する。
2003年 – 2月、セフィーロを廃止し、前年に廃止となったローレルとの統合後継車としてティアナを投入。
2003年 – 10月、日産ディーゼル工業と小型トラックの合弁会社「日産ライトトラック」を設立。
2004年 – 9月、サニーを廃止し、ティーダを発売。10月、セドリック・グロリアを廃止し、フーガを発売。
2005年 – 4月より従来の販売会社別での取扱車種を撤廃、全販売会社(レッドステージ&ブルーステージ)ですべての車種の購入が可能となる。
2005年 – 経営再建中の三菱自動車工業との包括的な事業提携。それに伴い、事業提携の一環として三菱製軽自動車eKワゴンのOEMとしてオッティを投入。
2005年 – 4月にゴーンが親会社のルノーの取締役会長兼CEO (PDG) に就任、日産の会長兼CEOも兼任する。
2005年 – 9月に、ゴーンが進めてきた日産180を終了。その後日米市場で販売台数が急落する。
2006年 – 6月に、グローバル生産累計台数1億台突破。
2006年 – 9月、日産ディーゼル工業の全ての株式をボルボへ売却し、資本関係を消滅。
2007年 – 12月、スカイラインの名前を捨て新たな道を歩む、日産GT-Rを販売開始。
2008年 – 環境省の「エコファースト制度」に認定。
2009年 – 8月、本社所在地を東京・銀座から日産の故郷である横浜へと戻す。(横浜みなとみらい21地区/登記簿上の本店所在地は従来通り、横浜市神奈川区宝町)。
2010年10月1日 – 産業機械事業部が独立、日産フォークリフト株式会社(現:ユニキャリア株式会社)となる。
2010年12月 – 量産型専用車種としては世界初となるEV、リーフを発表・発売開始。
2011年3月11日 – 東日本大震災の影響で、いわき工場と栃木工場の被災とサプライヤーの工場の被災により全工場の生産が一時ストップするが順次復旧を果たし、「今こそ、モノづくりの底力を。」のキャッチフレーズが起用される。
2011年6月1日 – 日産自動車・三菱自動車工業の軽自動車事業に関わる合弁会社、株式会社NMKV設立。(資本構成は双方50%ずつ)
2012年4月1日 – 「インフィニティ」ブランドの本社機能を香港に移転。
2012年6月29日 – 三菱ふそうトラック・バスと日本市場向け小型トラックの相互OEM供給で基本合意[7]。
2013年8月29日 – スズキと軽商用車のOEM供給で基本合意[8]。
日産自動車のロゴマークはもともと「ダットサン」で使われていたもので、吉崎良造(よしざき りょうぞう)と田中常三郎(たなか じょうざぶろう)がシボレーのマークにヒントを得て、赤の日の丸と太陽をベースに天空をモチーフとしたコバルトブルーをいれ、真ん中に白で横一文字で「DATSUN」と書かれていたのが前身である[9]。(なお、1937年に制定された社章=記章、株券等に使用していた=は、日の丸の真中に一本の横棒を挿入し、周囲を“日”を抽象化したもので囲ったもので、日立や日本興業銀行の社(行)章と類似していることから、発足時からの「日産・日立・興銀」の関係も表していた、とされている。
その後、文字を筆記体のカタカナで「ニッサン」[10] と書き直し日産コンツェルン全体の社紋として統括企業に普及するが、戦後の財閥解体とともに日産自動車のみの社紋としてローマ字表記の「NISSAN」に変更となった。
創業50周年を迎えた1983年には、アメリカのペンタグラム社が制作したロゴマーク及び指定フォント(書体)に一新され、さらに2001年には、1999年以降のルノー傘下になってからのゴーン体制下でデザインが社内コンペで検討され、立体的なものとなったロゴマーク及び指定フォント(書体)に一新され、2001年にフルモデルチェンジしたシーマ(F50型)、プリメーラ(P12型)から採用されて現在に至る。ちなみに、このとき採用されたロゴのサンプルは現在でもゴーンのオフィスに飾られているという。
企業フォントはTBWA開発の「NISSAN AG(Akzidenz Groteskの日産バージョン)」とモリサワ「新ゴ」の組合せ、車名バッジはG10型ブルーバードシルフィからNE-01というフォントに基本的に統一されている。
赤・白・青のトリコロールカラーは、日産自動車のコーポレートカラーとして日産ディーラーの各販売会社の店頭看板やレースカーのボディデザインなどとして古くから親しまれている。日産自動車がスポンサーとなっている横浜F・マリノスのチームカラーとしても起用されている。
なお、カタカナの車名ロゴは、2001年にロゴマークおよび指定フォント(書体)が一新された後も、1983年の創業50周年を機に米ペンタグラム社が製作した指定フォント(書体)が引き続き使用されていたが、2007年5月にマイナーチェンジして発売されたラフェスタ(B30後期型)、新規車種として発売されたデュアリス(J10型)以降から、新たに製作された指定フォント(書体)に一新されている。
そのほか、日産ディーラーの各販売会社の大型看板 (NISSAN Blue Stage, NISSAN Red Stage, NISSAN Red & Blue) の「NISSAN」の指定フォント(書体)は、1983年に米ペンタグラム社が製作した指定フォント(書体)を引続き使用していたが、2007年から、日本国内の日産販売会社各店のレッド/ブルーの色分けを中止してからは、2001年に一新されたロゴマーク及び指定フォント(書体)へ変更された新しいVI(ビジュアルアイデンティ)への変更が順次進められている。
キャッチフレーズ[編集]
メイン・キャッチフレーズ[編集]
世界の日産(1960年代)
人とクルマの調和をめざす 日産自動車(1970年-1973年)
人とクルマの明日をめざす 日産自動車(1974年-1977年)
人とクルマの明日をめざす 技術の日産(1978年-1981年)
世界に愛される 先進技術の日産(1982年)
もう走り始めています 21世紀へ 先進技術の日産(1983年-1985年)
21世紀を目指す 先進技術の日産(1985年)
Feel the Beat もっと楽しく感じるままに 技術の日産(1985年-1991年)
LIFE TOGETHER 人間のやさしさをクルマに(1991年-1998年)
クルマのよろこびを(1999年1月-「ルノー=日産アライアンス」資本提携前)
NISSAN, RENAISSANCE(「ルノー=日産アライアンス」資本提携後-2000年4月)
SHIFT_the future(2001年12月4日-2008年11月)
SHIFT_the way you move クルマの可能性を、未来へ。(2008年11月-2012年3月)
今までなかったワクワクを。 SHIFT_[11](2012年4月-2013年4月)
Innovation that excites 今までなかったワクワクを。(2013年4月-現在)
サブ・キャッチフレーズ[編集]
無理のない運転で、貴重なエネルギーを大切に(1970年代-1985年)
安全は人とクルマで作るもの(1970年-1985年)
シートベルトは“安全ベルト”正しく使う習慣を(1970年代-1985年)
スペース・テクノロジー(1983年)
20世紀の残りは日産がおもしろくする(1990年-1991年)
いい運転 日産からのお願いです。(1990年-1991年)
熱血業界宣言(1990年代前半)
スピードおさえていい運転(1991年-)
変わらなきゃ(1995年)
変わらなきゃも 変わらなきゃ(1996年)
もっと日産になる(1997年-1998年)
SHIFT ワード(車種別広告でのキャッチフレーズ)(2004年-2008年)
今こそ、モノづくりの底力を。(2011年5月-2012年3月)(東日本大震災の被災による)
80 years of moving people 80年のありがとうを、クルマにのせて。(2013年11月-)(日産自動車創立80周年による)
フェア&イベント・タイトル[編集]
日本全国日産デー(1970年代後半-1992年、1994年)
1986年 – 1987年頃に展開されていたCMには、当時デビューして間もない歌手・タレントの西村知美が「日本全国日産デー」キャンペーン専属のCMキャラクターとして起用されていた。
ヨンセンマン(1992年)
日産自動車の生産累計台数が4000万台達成したことを記念し数々の特別仕様車が発売され、車のボディをモチーフにした顔が特徴的な「ヨンセンマン」のCGアニメキャラクターが存在していた。
熱血大感謝フェア(1993年)
1993年の創業60周年を記念し、数々の60周年特別仕様車などを取り揃えた、「熱血大感謝フェア」と名付けたキャンペーンCMの専属キャラクターとして、「熱血業界宣言」キャンペーン専属のCMキャラクターを務める吉田栄作をはじめとして、島崎俊郎、神田利則、中山美穂、松居直美、中條かな子が起用されていた。
イチロニッサン(1995年-1999年)
1991年から1994年にかけてフルモデルチェンジした新型車を続々と投入していたが、新型車の評判がフルモデルチェンジ前の旧型車と比較して芳しくなく販売不振が続き、その結果、人気度・信頼度・企業イメージが低下していた日産自動車全体の建て直しと、タクシー・パトカー・教習車モデルを除く乗用車全車種に、運転席と助手席にSRSエアバッグを標準装備化して他メーカーとの差別化を図ったことによる販売回復の起爆剤になることを願って、野球選手のイチローをメインに、野球解説者(当時)の原辰徳、サッカー選手の川口能活、ボクシング選手の辰吉丈一郎、タレントのかとうれいこ、競馬騎手の武豊といったの大物スポーツ選手、タレントをCMに起用し、「変わらなきゃ」「変わらなきゃも変わらなきゃ」「イチロ・ニッサン」「こんどの週末は、イチロ・ニッサン」「エアバッグなら、イチロ・ニッサン」「エアロRVなら、イチロ・ニッサン」「イチロ・エアバッグ」「イチロ・エアロ」「ワゴンボックスに乗ろう」などのキャッチフレーズをつけていた。
なお、「ワゴンボックスに乗ろう」のキャッチフレーズのCMでは、元マラソンランナーの増田明美が、マラソンの実況解説風のCMナレーションを担当していた。
それに対して、危機感を抱いたライバルメーカーのトヨタ自動車は、乗用車全車種にSRSエアバッグの標準装備化に加えてABSも標準装備化して、日産自動車のCMに起用の野球選手のイチローに対抗して、ライバルの野球選手の野茂英雄を起用したり、ABS(エービーエス)をA(エ)B(ビ)S(ス)というダジャレ的なネタにちなんでタレント・漫画家の蛭子能収(えびす・よしかず)をCMに起用して日産自動車に対抗した安全装備の標準化による日産VSトヨタでの販売競争が他メーカーにも波及し、後に、軽自動車を除くほとんどの国産車でSRSエアバッグとABSが標準化されるきっかけになった。
のってカンガルー(2007年-2012年)
声、ナレーションは、スチャダラパー アニ、貴家堂子、桂玲子、安齋肇、Perfume、郷ひろみ、バナナマン(日村勇紀、設楽統)、伊武雅刀、小林克也、井上順を起用。
CMキャラクターは、栗山千明、渡部陽一、古屋隆太、木村多江を起用。
ノッテコニッサン(2013年-現在)
CMキャラクターに嵐を起用。なお嵐は2012年からのPURE DRIVEシリーズのメインキャラクターも務めている。
日産生産方式 (Nissan Production Way)[編集]
日産自動車が21世紀の生産・販売戦略として導入した生産方式。顧客の注文に基づく詳細な生産指示書を関係工程に指示し生産する方法で、これにより受注から納車までの時間が最短で3日という迅速な生産を実現した。現在、インフィニティブランドを取り扱う栃木工場などに導入されている。
日本国外の事業所および販売[編集]
東アジア
日産自動車台湾(台北)事業所 (NISSAN/YULOONG)
日産自動車北京事業所
日産自動車香港事業所 (HONEST MOTOR LTD)
日産自動車上海事業所
日産自動車大連事業所
日産汽車(中国)有限公司 (NISSAN/INFINITI/RENAUT/DONGFENG)
韓国日産 (한국닛산:NISSAN/INFINITI/RENAUT/SAMSUNG)
日産自動車ソウル事業所(닛산자동차서울사업소)
日産自動車釜山事業所(닛산자동차부산사업소)
東南アジア
日産モータースマレーシアBHD (NISSAN MOTORS MALAYSIA BHD)
日産自動車クアラルンプール事業所
日産自動車コタキナバル事業所
日産自動車シンガポール事業所 (NISSAN MOTOR SINGAPORE PTE.LTD)
タンチョンモーターPTE.LTD(シンガポール)
ニッサンモーターフィリピンズ (NISSAN MOTOR PHILIPPINES INC)
日産自動車バンコク事業所
日産自動車タイランドリミテッド
日産自動車ジャカルタ事業所
PT.日産モータースインドネシア (PT.NISSAN MOTORS INDONESIA)
南アジア
日産自動車インディアリミテッド (NISSAN MOTOR INDIA LIMITED)
日産自動車ムンバイ事業所
日産自動車カラチ事業所
日産自動車イスラマバード事業所
日産自動車パキスタン
オセアニア
日産自動車シドニー事業所
日産自動車メルボルン事業所
豪州日産自動車 (NISSAN MOTOR AUSTRALIA PTY)
日産自動車オークランド事業所
日産ニュージーランドリミテッド (NISSAN MOTOR NEW ZEALAND LIMITED)
北アメリカ
日産自動車ホノルル事業所
日産自動車シアトル事業所
日産自動車サンフランシスコ事業所
日産自動車ロサンゼルス事業所
日産自動車ニューヨーク事業所
日産自動車バンクーバー事業所
日産自動車トロント事業所
日産自動車モントリオール事業所
日産ノースアメリカINC(INFINITI/NISSAN)
ラテンアメリカ
日産自動車サントドミンゴ事業所
日産セルビシオ・デ・ドミニカーナ (NISSAN SERVICIO DE DOMINICANA)
ルノードミニカーナS.A.
日産自動車サンパウロ事業所
日産ブラジルLTDA (NISSAN/RENAUT)
ルノーアルゼンチィーナS.A.
日産自動車ブエノスアイレス事業所
日産モートル・デ・アルゼンティーナS.A. (NISSAN MOTOR DE ARGENTINA S.A.)
日産自動車リマ事業所
日産モートル・デ・ペルーS.A. (NISSAN MOTOR DE PERU S.A.)
日産自動車メキシコシティ事業所
日産メキシカーナS.A. (NISSAN MOTOR DE MEXICANA S.A. deC.V)
ルノー・メキシカーナS.A.
日産自動車サンチアゴ事業所 (NISSAN MOTOR SERVICIO DE CHILE)
日産丸紅セルビシオ・デ・チリS.A. (現地丸紅との共同出資:NISSAN MARUBENI SERVICIO DE CHILE)
シデフ社(チリ:日産車正規ディーラー)
日産セルビシオ・デ・コロンビアS.A.
日産自動車ボゴタ事業所
日産セルビシオ・デ・エクアドルS.A.
日産セルビシオ・デ・ベネズエラS.A.
日産セルビシオ・デ・パラグアイS.A.
ヨーロッパ
欧州日産自動車エヌヴィ(NISSAN MOTOR EUROPE N.V.)
日産自動車モスクワ事業所
日産ロシアエヌヴィ (NISSAN RUSSIA N.V.)
日産ジャーマンGmBH (NISSAN GERMAN GmBH)
日産自動車フランクフルト事業所
日産自動車ミュンヘン事業所
日産フランスS.A. (NISSAN DE FRANCE S.A.)
日産自動車パリ事業所
日産自動車ローマ事業所
日産自動車ブリュッセル事業所
日産自動車アテネ事業所
日産自動車マドリード事業所
日産自動車コペンハーゲン事業所
日産自動車ヘルシンキ事業所
日産自動車マンチェスター事業所
日産自動車ロンドン事業所
中東・アフリカ
日産自動車ドバイ事業所
日産自動車アブダビ事業所
日産セールス・オブ・ミドルイースト(NISSAN/INFINITI/RENAUT)
日産自動車ジェッダ事業所
日産自動車ドーハ事業所
日産サウスアフリカLTD
日産自動車ヨハネスブルク事業所
日産自動車テヘラン事業所
日産自動車ケニア事業所
日産自動車カイロ事業所
関連企業・団体[編集]
日産コンツェルン
中島飛行機
プリンス自動車工業
INFINITI
日産車体
オートワークス京都
NMKV
UDトラックス
富士重工業
ルノーサムスン
日立製作所
日立オートモティブシステムズ
ザナヴィ・インフォマティクス
クラリオン
日産東京販売ホールディングス
日産工機
ジヤトコ
トノックス
日産テクノ
愛知機械工業
オーテックジャパン
NISMO
高田工業
学校法人 日産自動車大学校
横浜F・マリノス
日産スタジアム
日産自動車硬式野球部
日産自動車九州硬式野球部
日産フィナンシャルサービス
ツーカー
ミツバ
カルソニックカンセイ
損害保険ジャパン日本興亜
日産センチュリー証券
日本水産
興銀リース
日産マリーン
日産クリエイティブサービス
日産ライトトラック
日産専用船
日産トレーデイング
アフトヴァース
ユニプレス