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ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニアは、アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア出身のプロ野球選手。メジャーリーグベースボール(MLB)で1914年から1935年まで通算22季プレイした。童顔であったことから「バンビーノ」「ベーブ」の愛称で知られ、球界に残した偉大な功績から「野球の神様」の異名をとる。左投げの花形投手としてボストン・レッドソックスでメジャーデビューし、外野手の強打者としてニューヨーク・ヤンキースで最も名声を博した。打者としての生涯通算成績で、714本塁打、2,213打点、2,062四球、長打率.690、OPS1.164、本塁打王12回など、数々のMLB記録を打ち立てており、うち最後の3つは2021年現在も破られていない。アメリカの文化において最も偉大なスポーツ界の英雄の一人であり、史上最も偉大な野球選手であるとみなされている。1936年には、最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人のメンバーのうちの1人に選出された。
7歳のとき、セント・メアリー少年工業学校という少年矯正施設に送られ、同校の教官でザベリオ教職会員の修道士マシアス・バウトラーと出逢い、有能な野球選手でもあった同師に野球の手解きを受ける。1914年、マイナーリーグベースボールのボルチモア・オリオールズと選手契約を結ぶが、すぐにレッドソックスへ売りに出された。1920年以前のデッドボール時代(いわゆる「飛ばないボール」の時代)においては他に例を見ないほどの離れ業をやってのけ、1916年までには時々飛距離の長いホームランを打つ傑出した投手として名声を築いていた。投手としては二度のシーズン23勝を記録し、レッドソックスで三度のワールドシリーズ制覇を経験したが、自身は毎日プレイすることを希望し、外野手に転向することになった。野手としてレギュラー起用されるやいなや、1919年に29本塁打を放ち、当時のMLBシーズン最多記録を更新した。
同シーズン終了後、レッドソックスのオーナーであったハリー・フレイジーは球団経営を巡る論争の最中にルースをヤンキースに売り渡した。このトレードにより、レッドソックスはその後86年間にわたりワールドシリーズチャンピオンの座から遠ざかることとなり、これを「バンビーノの呪い」の所為としたジンクスが、ボストンのファンを中心に広まった。ルースはヤンキース移籍後の15年間で、7度のア・リーグ優勝(英語版)と4度のワールドシリーズ制覇に貢献した。大きなスイングで通算本塁打数をぐんと伸ばし、ファンを球場に引きつけ、野球の人気を高めただけでなく、ライブボール時代(「よく飛ぶボール」の時代)の到来を告げる形となり、以降、野球は低スコアに抑えて投げ勝つゲーム戦略のスポーツから、ホームランを一つの主要な勝利のファクターとするスポーツへと進化した。1927年には、ヤンキースご自慢の「殺人打線(英語版)」の一員として60本塁打を放ち、自身の持つMLBシーズン記録を1本上回り更新した。1934年のシーズンを最後にヤンキースを去り、翌年ボストン・ブレーブスに短期間在籍した後、現役を引退した。
彼は生涯を通じて、自身の野球の功績からフィールド外での飲酒や女遊びの嗜好まで、過熱する報道と大衆の注目の的であった。引退後は、おそらく選手時代の素行の悪さが原因で、メジャーリーグクラブの監督になることを拒否されていた。晩年は公の場に姿を見せることが多く、特に第二次世界大戦においてはアメリカの努力を支持した。1946年、鼻咽頭癌(英語版)を患い、それが原因となり2年後に死去した。死後もアメリカの文化の一部であり続けており、2018年にはドナルド・トランプ大統領から大統領自由勲章を追贈された。
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